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小説を繰り返し読むこと

上智大学名誉教授の故・渡部昇一が執筆したベストセラー「知的生活の方法」は,私の生き方のバイブルとも言える本だ.これまで何度も読んでいる.

参考になるところは多々あるんだけど,今回再読して特に注目したのは,一度読んだ小説を繰り返して読むことの意義についてだ.

 

ビジネス書とか専門書であれば,何度も読み返すのはわかる.一度さらっと読んだだけで身につくとも思えないし(私がこの本を何度も読んでいるのはそのためだ)

だけど,小説は一度読み終えたらストーリーはすべて分かっているし,オチも分かっている.自分の中ではネタバレした物語をもう一度読むことになるわけだ.その意義はどこにあるのだろうか?

 

渡部はこの点について以下のように述べていた.

筋を知っているのに繰り返し読むということであるから,注意が内容の細かいところ,おもしろい叙述の仕方にだんだん及んでゆくということになるであろう.これはおそらく読書の質を高めるための必須の条件と言ってよいと思う.

そして「私にとっての古典」がある人こそが,真の読書家であるという.

ただ渡部が言ってるのは,漱石シェークスピアのような世が認める古典の中で,好きなものを探せと言ってるのではない.そこが面白いところだ.

 

いつの時代でも流行りの作家がいるが,時代が経つにつれて次第にフェードアウトしていき,忘れ去られていく.

しかし,その中でも数少ない小説のみが何世代にもわたって読み継がれ,飽きられることなく現代に生き残る.それが古典だ.

これと同じプロセスで考える.

自分自身が何度も繰り返し読み続けていっても,飽きることなく,最後まで自分の中で生き残った小説が「私にとっての古典」だ.これが渡部の主張である.

だから,必ずしも世間一般で古典として認められているような小説とは限らない.

渡部にとっては「半七捕物帳」が自分にとっての古典だと明言している.捕物帳とは江戸時代を舞台にした推理小説である.

 

私にとって「小説の読書」とは?

私が考えていた小説の読書とは,話のスジを知って楽しむことだった.つまり,どんでん返しにワクワクしたり,窮地に陥ってハラハラしたり,感動のエンディングに涙したりすることだ.

そして,小説を書くという行為は,「目新しいストーリーを展開することで,読者にワクワク,ハラハラを提供して面白いと思ってもらう」こと.その一点に集約されると思っていた.

なので,

  • 現在どんな小説が流行っているのか?
  • どんな小説が売れているのか?

先ずはそれを知らないと,いくら面白い話を自分で思いついても似たような小説があったら新鮮味がないし,読者は面白いと思ってくれない.

つまり,小説の価値は話のオリジナリティに根本があると思っていた.確かにそれも一理あるかもしれない.

 

だけど,渡部昇一の本を読んでふと思った.

たとえば,新聞はただの情報伝達の手段なので,一度内容を知ってしまえばそれ以上の価値はない.再読することもない.

小説が面白さや感動だけを与えることが目的であれば,新聞と同じで一度読んだら終了.二度目はもうネタが分かっているので,再読する価値がない

読者は常に新しい刺激を求めているので,それに応えるように次から次へと新しいネタの小説が出版されている.大量消費という現代社会を象徴しているかのようだ.

だけど,読書の価値というのはそれだけではない.

何度も繰り返し読むことで,面白い叙述の仕方や格調高い言葉の使い方,キャラクターの際立たせ方,巧みな時代描写や心理描写などに目がいく.

つまり,単にストーリーがよければいいという話ではなくなり,細かなディティールの完成度にも目が向けられる.

繰り返し読んでも飽きることのない「古典」とは,そういうものなのだろう.

 

「私にとっての古典」を探す旅

「私にとっての古典」と言える小説は何か? 今のところ分からないけど,小説をじっくり何度も繰り返し読むことは,流行りの小説を乱読するのとは違った世界が見えてくるだろう.

安岡章太郎は,漱石や鴎外,ドフトエフスキーらを何度も繰り返し読んだといい,それこそが本当の読書だと明言した.

私は一昨日,ちょうどジュラシック・パークを読了したけど,1年くらい経ったらまた再読してみたい.自分にとっての古典になりうるか分からないが,今後は新たな本を読む一方で既読の本も再読し,自分にとっての古典を探し続けたい.

そのようにして,自分の読書センスが成長していけば,難しい小説や読み応えのある小説も楽しめるようになっていくだろうし,自分が文章を書く際のベースが完成するのではないかと思う.